妙覚寺と雷電爲右衞門

雷電爲右衞門と佐倉・雷電祭

雷電爲右衞門

江戸時代の寛政から文化年間にかけて、無敵の強豪ぶりを謳われた名力士雷電爲右衞門の名は、あまねく知られているところです。

明和4年(1767)一月

信州小県郡大石村(現在の東御市滋野)の生まれ。父は半右衛門、母はけん。平成29年で生誕250年を迎えました。

天明4年(1784)

18歳の時に浦風部屋に入門、「谷風」の内弟子となりました。
6尺5寸(197㎝)、45貫(169㎏)の巨体力士と伝えられています。

天明8年

雲州(島根県)松江藩主松平治郷(不昧公)に抱えられ、藩にゆかりの四股名「雷電」をもらい、雷電爲右衞門となります。現役21年間、うち大関を張ること28歳よりの16年半、27場所に及びました。

文化8年(1811)

腰を痛めて文化8年(1811)2月場所を全休、この場所を最後に引退。
44歳であった。生涯成績は254勝10敗、勝率96.2%という歴代最強の勝率でした。

文政8年(1825年)

江戸払いとなった後、晩年を妻の実家のある臼井で過ごし、文政8年(1825年)2月11日、この地で生涯を終えました。享年59歳。

臼井と雷電爲右衞門

雷電関は臼井で旧淨行寺(現在妙覚寺と合併)の檀家飯田家の甘酒茶屋「天狗」の看板娘で、臼井上宿出身の八重(おはんともいう。)を妻として娶り、二人の間には夭折した一女がありました。

文政8年(1825年)59歳、この地で亡くなり、亡骸は江戸まで運ばれて赤坂の報土寺に土葬されました。妻八重(おはん)は遺髪や遺品を所持し、臼井(旧淨行寺)にも墓所が作られ祀られ、後に妻が所持していた遺髪は郷里(長野県東御市)と松江(西光寺)に分けられ祀られたといいます。

これらの四箇所の墓所は現存していますが、親子三人で葬られているのは臼井だけです。

佐倉・雷電祭

佐倉・臼井の地に縁の深い雷電爲右衞門のご命日の法要が毎年2月11日に勤修され、また、佐倉太鼓衆による勇壮な太鼓演奏などが奉納されるなど雷電関を顕彰しています。